ここから本文です。
更新日:2018年3月5日
海もあり、山もありの茨城県北。その海と山に挟まれた常陸太田市に、「美しい里」と呼ばれる地区があります。その美しさに魅了され、アーティストのクリスト&ジャンヌ・クロードが日本中の候補地からその場所を選び「アンブレラ・プロジェクト」を制作した、美しい里があります。今回はその美しい里に魅了され、20年もの間その土地に関わり続けてきたある人にお話を聞きました。里美地区と歩んできたPotLuck Filed Satomi(外部サイトへリンク)代表、岡崎靖さんの里美ものがたり。
▼PotLuck Field Satomi 代表の岡崎靖さん
都市公園としてはニューヨークのセントラルパークに次いで世界で第2位の面積を持つ水戸の偕楽園。そこからまっすぐ北に伸びる国道349号線を車で走ること1時間弱。美しい里、里美地区(旧里美村)に入ります。この国道に沿うように流れる里川の両側に小高い山々が並び、車窓からは慎ましげな田園風景が見えてきます。この国道沿いにあるPotLuck Field Satomiの事務所兼コミュニティスペースを訪れました。
▼空き店舗を改装した事務所兼コミニティスペース
PotLuck Field Satomiはここ里美地区を拠点として、地域の声をベースとして、地域産品の開発・販売や、情報発信、教育事業など、地域の内と外をつなぐ仕事をしている会社です。例えば、里美の美味しい水に着目してオリジナルのアイスコーヒー(外部サイトへリンク)を商品化したり、お試し居住のコーディネートをしたり。以前、本ウェブサイトでも別のライターさんがインタビューさせて頂いたことのある長島由佳さんが代表となり岡崎さんと共に2015年の3月13日(サトミの日)に設立。現在、前代表の長島さんはご家族の事情で休職し里美を離れ、岡崎さんが代表を務めています。
岡崎さんはここ里美地区の出身ではありません。同じ県北地域でありますが、日立市の出身です。なので、聞かねばなりません。
岡崎さん、どうして里美へ来たんですか?
「父の実家が、福島で桃農家をしていて、帰省するのが楽しみだったんだよね。一度帰省すると、子供の時から帰ってくるのが本当に嫌で。(笑) その時からずっと、そういう土地に対する憧れみたいなものがあって。 」
と、言われる岡崎さんの目は当時の岡崎少年です。
いわゆる岡崎さんにとっての原風景が、その福島の田舎の情景。以来、その原風景は岡崎さんの瞼の裏に少年期より映り続けてきました。日立製作所関連のシステムエンジニアとしての会社勤め時代、とにかくその原風景に近い場所を求め、里美地区に家族と一緒に越してきました。それが今から21年前のこと。
「ちょうど福島の田舎と似た景色で、少しスケールダウンした感じが里美で。両側に山があって、真ん中に川が流れていて、河岸段丘って言うのかな。」
会社勤めをしながら、土日は田園や森林をフィールドに交流人口増加のための体験プログラムを行っていた任意団体に自主的に参加。徐々に里美の魅力を伝えていきたいという気持ちが強くなったそう。そんな1999年の秋口。日立市から東京に単身赴任していた岡崎さん。もう季節は10月だというのに、東京は唸るような暑さ。少しの休暇をもらって、里美に帰ってきました。
「バスから見た景色で、もう稲刈りが終わってるんだよね。通り抜ける風も冷たくて心地よくて。もうこれ以上季節の感じられない場所にいてはダメだと、思い切って会社を辞めて里美で自分のやりたいことを仕事にしてみようと思ったんだよね。」
退職金で何とか1年くらいはなんとかなるかなぁ。と、思い切って10年以上勤めていた会社を辞めた岡崎さん。「当時は自分に何っにも(強調)スキルがない状態で、想いだけで飛び込んだ。」と、意外にギャンブラーです。
そんな中、当時国家資格だったという森林インストラクターという資格を見つけます。グリーンツーリズムの潮流もあり、資格を取得した岡崎さんは里美の自然を観光資源にする事業を展開しようと役場にも働きかけ、奔走します。ですが、当時の岡崎さんは経験も実績も資本もない個人事業者という立場。なかなか思い描くビジョンは実現しません。
「茨城の森林インストラクターというよりも、里美の森林インストラクターとして活動したかったのね。自分がそうだったように、都会で暮らす子供たちにとって里美の自然の豊かさが原風景となるような体験を提供してみたいなと思って。」
取材に先駆けて、岡崎さんと打ち合わせをさせて頂いた時、"里美の水の綺麗さ"が話題にあがりました。水が綺麗で美味しいというのが、本当に自然が豊かな土地ということだろうとその時深く納得しました。そこで里美の水を感じれる場所へ案内してもらいました。
国道沿いのPotLuck Field Satomiの事務所から、車でわずかの『薄葉沢』(うすばさわ)という沢に連れて行ってもらいました。ここは、人の手がちゃんと行き届いた杉林が立ち並び、それら木々の間から差し込む光の中、沢のせせらぎが森中に響くとても気持ちよい場所。沢にそって伸びる山道を歩きながら感嘆する僕らに、得意げな"少年"岡崎さんの顔が印象的でした。そして、この山道はかつて北茨城の大津や平潟の海と繋がる"塩の道"だったそう。ここにも確かに民俗の残り香があることに少し興奮を覚えました。
里美に来たことがない方には、いわゆる観光スポットは後回しにして、まずはここ薄葉沢を訪れることをお薦めします。きっと身体で里美を知ることが出来ると思います。(岡崎さんの森林ネイチャーガイドも併せてお申込みされて行くべきことは言うまでもありません。)
▼薄葉沢の奥、マイナスイオンを嫌という程浴びれる滝の目前に用意された丸太のベンチ。ここに座ってお弁当なんて最高過ぎます。
森林インストラクターとして、自分のやりたい仕事で生計を立てていこうと考えていた岡崎さん。ですが、そう簡単には事は運びません。そんな悶々とした日々のある夜、電話が鳴ります。電話に出ると、里美村(当時)の村長さんからでした。当時、村長さんは家業として造り酒屋を営んでいました。そこで冬の仕込み時のアルバイトに欠員が出たので、岡崎くん手伝ってくんねぇか?との打診。岩手から来る杜氏の手伝いとして、お米を洗ったり運んだりのいわゆる下働きの仕事。心に曇り空を少し抱えながらも、岡崎さんはその仕事を引き受けます。
「そしたら、杜氏の人たちが若いやつが来たってすごく喜んでくれて。色々と教えてやっからって親切に色々教えてくれたんだよね。もう、まるで夏子の酒の世界。酒造りの奥深さにどんどん引き込まれちゃって。」
3月までの期間限定のアルバイトの予定が、熱意を買われて通年採用が決定。日立製作所関連企業のシステムエンジニアだった岡崎さんが、森林インストラクター経由で造り酒屋の蔵人に。いわゆる転職なら〇〇的な転職とは次元が違います。
「当時、他所の蔵から杜氏を呼ばずに自社の蔵人が酒造りをするというのが茨城県内でもちらほら見られるようになってきて、その流れで自分もこの酒蔵の杜氏を目指し、これで一生食べていこうと思っていたんだよね。それに冬場の酒造りのシーズン以外は、割と時間に余裕があったから地域の活動や、森林インストラクターも並行して続けることが出来て。季節に合わせて労働の形を変えるっていう、田舎ならではの働き方が出来たんだよね。」
この時岡崎さん、35歳。
この道と決めた酒造り、杜氏への道はその後9年間、44歳まで続きます。
ここで一旦話しを現在の52歳岡崎さんへ戻します。
PotLuck Field Satomiの事務所から田んぼ道を歩くこと5分程のところにある、旧酒蔵金波寒月(きんぱかんげつ)。ここは岡崎さんが当時勤めていた酒蔵ではありませんが、今の岡崎さんには縁が深い場所。この金波寒月は50年程前に酒蔵としての営みを終え、長らく大家さんの物置きになっていました。そこで、折橋地区活性化プロジェクトチームの代表である助川仁一さんが発起人の一人になり、この酒蔵を再び地域の文化交流の拠点にしようと立ち上がりました。地域の方々、PotLuck Field Satomiのメンバー、多くの人の協力を得て折橋コミニティステーションとして再スタートしたのが2015年の12月。岡崎さんは蔵人であった知見を活かしながらも、この場所の運営をサポートしてきました。
▼どこか似た雰囲気をもっている助川さんと
さて、もう一度44歳の岡崎さんに戻ります。
造り酒屋で杜氏への道を歩み出した岡崎さん。8年目を迎え、蔵人としての経験も積んできました。しかし、運命の歯車はあらぬ方向へ転がります。
「だんだんと仕込む量が減ってきて、あれっと思って。これはもしかして...というところに、来年から酒は作らないからと言われて。杜氏の親方からは、資格さえ取れれば他の蔵でも仕事が出来るからと励まされ、杜氏資格の試験を受けたけど、キャリア点という評価がギリギリ足りずに資格を取得出来なくて。」
「2人目の子供も10歳になる時だったかな、これから色々費用が掛かる中ですぐにでも次の仕事先を探さなければと思っていたら、たまたま醤油屋さんで醸造が出来る人を探しているよという話しがあって、戸惑いはあったんだけど、すぐに入社させてもらえることになったんだよね。」
日立製作所関連企業のシステムエンジニアだった岡崎さんが、森林インストラクター経由で造り酒屋の蔵人になり、蔵転職で醤油蔵の醸造職人に。もう一度言います。いわゆる転職なら〇〇的な転職とは次元が違います。
「いやぁー同じ蔵は蔵なんだけど、最初あまりの蔵の状態の違いにカルチャーショックで。酒造りは基本的に蔵をものすごく綺麗にしてから仕事を始めるのね、だけど醤油は蔵付きの菌を大事にするから、考え方が違うんだよね。」
そしてそこから7年。
岡崎さんは醤油蔵の醸造職人として働きます。
後編に続く
文・写真 / 山根晋
このページに関するお問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください